コラム #2
2014年8月15日公開
Cool Japan Graffiti
株式会社大和総研 副理事長/クールジャパン機構 取締役川村 雄介
シアトルに住んでいた30年以上前のある宵でした。大きな夕陽が、秋を迎えたピュージェット湾を稲穂色の帯に染めながら沈んでいきます。私は中古のボブキャットのアクセルを目一杯踏み込んで、スティープな九十九折の坂道をドライブしていました。モニカが指定したレストランにほどなく着くはずです。約束の時間をちょっと過ぎていました。 モニカは日本人を祖母に持つ米国人。大学院で日本文化論を専攻していました。修士論文は、黄表紙本と里見八犬伝というようなテーマで、私も結構お手伝いしたものです。この日はそのお礼にと、彼女が食事に誘ってくれたのです。 いつも地味なシャツと綿パン、それに度の強いメガネをかけた典型的な学者の卵タイプの女性でした。賑やかで華やいだ大学キャンパスの中では全く目立たない存在です。 レストランはSPQRの名前通りイタリアンです。大きな窓から見える海面は、まだほんのり陽の光を宿して静かにたゆたっていました。テーブル係に案内されるのですが、モニカの姿が見当たりません。「遅刻したんで怒って帰っちゃったのかなあ」 実は大きなダイニングの奥に、海面にせり出した小部屋がありました。モニカはそこにいました。一瞬、私は息を止めました。髪をきれいに上げ、メガネを外した彼女は別人のようでした。何よりも驚いたのは、白に近い萌黄地に薄藍と紅花色の大きな朝顔を染め上げた柄の服でした。”My Goodness! ” “You like this? “ “I love it” 彼女は日本の浴衣を着ていたのです。 食事を終え、私たちは階下の湾岸遊歩道を散策しました。彼女の浴衣は月明かりを注がれて万華鏡のように趣を変えます。思わずB.Eキングのヒットソングが口をついて出ました。When the night has come…and the moon is the only light we see… 秋が深まったシアトルの郊外では見事な紅葉を楽しめます。この日は、指導教官のヘンダーソン教授の自宅に大学院生が集まり共同研究の打ち合わせ、その後は教授家族も一緒になってバーベキュー・パーティです。教授の邸宅は、ワシントン湖岸のなだらかな丘の上にありました。リビングからはレニア山-日系人はタコマ富士と呼んでいました-が白く突兀と聳えるさまが見事です。錦繍のような紅葉の重ねを愛でながら、次第に虫の声が集くガーデン・パーティ。ウサギ小屋では2羽のアメリカン・ファジー・ロップが愛嬌たっぷりの仕草をしていました。 「この屋敷は、私が高輪に住んでいた時によく散歩したある財閥の館をヒントにしたんだ」今朝上がったばかりの大きなサモンを焼きながら教授が自慢げに言います。彼は若き日に、GHQの法務専門スタッフとして東京に滞在していたのです。滞日中に収集した日本近世の工芸品の数々が教授邸の部屋にさりげなく飾られていました。佐賀三右衛門は逸品揃いでした。わけても公事方御定書の写本を入れたガラスケースの横に置かれた太郎右衛門のぐい呑が私の気を引きました。「最初は色鍋島に魅入られてね。だが、だんだん陶器の良さもわかるような気がしてきたよ。妻と一緒に焼き物作りを始めるんだ」 元気に庭を走り回っていたお孫さんたちが、教授夫人に駆け寄り何かせがんでいます。 「大好きな曲をかけて踊りたがっているんだよ」お孫さんたちはカセット・デッキを置くとスイッチを入れました。調子のいいイントロにウサギたちはきょとんとし、教授夫妻は満面の笑みです。「これも日本だね」デッキから流れる音楽はピンクレディーのメドレーだったのです。 時は移り、私は、長崎は新中川電停近くの由緒ある料亭に招かれていました。長崎名物の卓袱料理です。和食、中国料理、西洋料理が混然と会席風に配膳され、和華蘭(ワカラン)料理とも呼ばれます。丸卓の外縁がせり上がっているのが特徴です。江戸時代に、武家も町人も差別なく座り、汁物を卓上に溢しても畳に落ちないように工夫したのだ、と聞かされました。 「お鰭」という鯛のお澄ましから始まる料理はどれも美味しいのですが、なかでも豚の角煮は最高です。トロリと溶けるように柔らかく、適度の甘さと気にならない濃厚さ。盛り付けも緑物とのコントラストが美しい。これを長崎では「東坡煮」と呼びます。中国北宋の著名な詩人、蘇東坡ゆかりのネーミングです。蘇東坡(蘇軾)は王安石と合わず、生涯何度も流刑を経験していますが、長江沿いの黄州に流されている時に「食猪肉」という詩を残しています。「黄州好猪肉…慢著火、小著水、火候足時他自美、毎日起来打一椀」いわゆるトンポーロ(東坡肉)です。 本家のトンポーロも美味しいのですが、長崎の東坡煮は和洋中が実に巧妙に融合し、多国籍和食といった趣です。司馬遼太郎氏だったでしょうか。日本人と日本という国は、渡来のものを巨大な胃袋のように、飲み込みながら自分流にアレンジしていく才能に恵まれている、と指摘されていましたが、東坡煮にもそれを感じます。 蘇東坡は晩年、海南島に流されました。ここでも後世に残る名詩を数多く作りました。特に、赦免され帰京しようと海南島の港で詠んだ『青山一髪是中原』にはジンと来るものがあります。 さて、長崎は昔、「瓊の浦」と呼ばれました。蘇東坡の時代、中国から海外とみなされていた海南島の地名は「瓊州」でした。 今も昔も、西でも東でも、クールジャパンの落書きは留まることがありません。
PROFILE
川村 雄介(Yusuke Kawamura)
株式会社大和総研 副理事長/クールジャパン機構 取締役
1977年東京大学法学部卒業後、大和證券入社。1981年 ワシントン大学法律学修士。2000年 長崎大学経済学部及び同大学院教授。2007年 ジャスダック証券取引所取締役兼務。2009年 一橋大学大学院客員教授兼務。2010年 大和総研専務理事。大阪証券取引所社外取締役兼務。2012年 大和総研副理事長。2013年 クールジャパン機構取締役兼務。